2019/01/13

 私の「脱構築可能なもの」と「脱構築不可能なもの」との区別のデリダ解釈は、実は
私の論文上の処女作、「ジャック・デリダの『戯れ』」(1995)でも示唆されている。そこでは、「ルールは記号である」(p.157.)であると述べておいたが、これはいわば反復不可能なもの、つまりは、いわゆる後年のデリダの用語「不可能なものの可能性」と一脈通じているのだ。(詳しく言えば、ルール自体がそれ自身記号の性格を持つということで、このルール=記号はルール化不可能なものを指示しているのだ)
 しかし博論を書いた時は、テーマを戦略的に「言語哲学」に絞ったので、この点について詳細に論じることは控えた。そして「ジャック・デリダの『戯れ』」も、このような理由から、つまりは博論の整合性を重んじるが為に、それにあえて組み入れなかったのだ。 
 ちなみに、この「不可能なものの可能性」の私の解釈は、

       デリダの「来るべき民主主義」

の思考にも通じる。というのも、彼の民主主義論には「出来事」性(勿論この概念は「不-可能性」を含んでいる)と彼自身が呼ぶものを中核的なものとして内在化させているからだ(この点については、Voyous,p.123.などを参照せよ)。

 さて、新たな課題として、こうした思考を「新(ネオ)-記号論」とでも言うべきもの、つまり暫定的ではあるが、私自身の思考の展開に生かせないものか?これはいわば「記号論的民主主義」という発想にも通じているだろう。