デリダの「来るべき民主主義」が詳述されているvoyousを読んで、私はつくづく思うのだが、なぜ彼は、民主主義の語源から生じる一番分かり易い(理解面でも実践面でも)定義である、「人民主権」という概念をなぜ、積極的に使わないのか?
 上記の著書で、彼はこの概念より「自由」概念を民主主義の本質的定義として優先している。確かに、彼は「主権」一般に対して批判的な態度をとっている。したがって、彼にとってこの人民主権概念も例外ではないのだろう。
 しかしながら、やはり、例えば、民衆に学者が民主主義を説明する場合、この「人民主権」という概念は非常に有効に機能する(私自身も実際に行使した経験がある)。民主主義社会において、この概念は、人民に最終的な政治的決定権があるということを意味する。とりわけ、民主主義国家内部において、大衆が選挙に嫌気がさしたり、あるいは政治的無関心になるといった、民主化の退歩が生じたとき、この概念を想起することは非常に有効である。官僚や政治家が最終的な政治的決定権を持つのではなく、むしろ自分たちこそがそれを持つのであるという認識は非常に重要である。
 なぜデリダはこのような所作を取ったのか?そしてこの問いに答えつつ人民主権の新たな可能性を探ることが私にとっての課題ではないか。