私見によれば、フッサールはこのような意義上の対立を行っているが、結局、彼は、「根源的意義」(originaren Bedeutung)に回帰し、「遊技的意義」(Spielbedeutung)に二次的な立場しか与えない遊技的意義とは彼によればチェスゲームの規則(Spielregeln)によって成立するものであり最終的には、彼は言語についてのチェスゲームのメタファーを十分に生かし切れていないのではないか?(HUSSERLIANA BANDⅩⅠⅩ/2 LOGISHE UNTERSUCHUNGEN ZWITER BAND ZWWEIERTEIL UNTERSUCHUNGEN ZUR PHÄNOMENOLOGIE UND THEORORIE DER ERKENNTNIS ,pp.74-75.)。フッサールはやはり何らかのアルケーという最終点に帰着することを望んでいるのであり、デリダの「戯れ」のような無限なる諸痕跡の漂流を思考していない。ただし、チェスゲームの外部のような現実の有効性を私は否定するわけではない。そういうわけで私は、いわば「新-記号論」という概念でデリダを越える試みを行いたいと思う。