野本和幸氏のフレーゲにおける「私」論批判

        高井雅弘 著

-野本和幸氏によるフレーゲにおける指示詞・指標詞が含まれた文の完全な「思想」は「脱コンテクスト化」されているという主張に対する批判-

 この批判は長年来、私にとって課題の1つである。
 野本氏説* に対する私による批判は以下の通りである。

1)そもそもフレーゲ自身が、野本が使う「脱コンテクスト化」という用語を、恐らく彼の指示詞・指標詞論において一度も使用していないということ。

2)またこれこそ決定的な私の野本氏への反論の根拠なのだが、フレーゲ自身が指示詞の一種である、一人称代名詞「私」が含まれる文の「完全な思想」は「伝達不可能」であるとと彼の論文「思想」* において語っていることである。
 もし、フレーゲにとって、彼が論文「思想」において例を挙げる、
              「私はけがをしている」(1)
というラオベン博士による発話の「完全な思想」が、野本氏が主張するように徹底的に「脱コンテクスト化」されているとすれば、なぜフレーゲ自身が、(1)のような文は、(1)を発話した人物、すなわち当の発話のコンテクストであるラオベン博士自身にしか「特別で原初的(ursprünglich)な仕方で与えられ」ないがゆえに、他者には伝達ないし同じものとして理解可能でないという私的言語(ないし私的思想)論を主張するに至った理由が説明できない。
 フレーゲによれば「私」が含まれた文の「完全な思想」は「伝達不可能」、すなわち私秘的である以上、このような「思想」が「脱コンテクスト化」されているとは言えない。(1)のような文が脱コンテクスト化されていれば-フレーゲが指示詞・指標詞文以外の文に表現された思想と同様に-伝達可能であるはずだからだ。
 しかもフレーゲ自身が一人称代名詞を含んだ文の思想は、自らの思想の共有財テーゼと矛盾すると早い段階から認めているからである* 。
3)その上フレーゲは指示詞・指標詞文のコンテクストは思想の部分であるとさえ主張しているように思われる。例えばフレーゲは『算術の基本法則』* において、野本氏が自著『フレーゲ言語哲学』で訳出しているように、
 「場所や時などのあらゆる規定は、その真理が、問題になっている当の思想の部分なのであって、真理性Wahrseinそれ自体は、時と所に関わらないort-und zeitlos」*
と語っている。
 同様に論文「思想」においても以下のようなフレーゲの発言が存在する。
「現在時制によって時刻が指定されるべき場合、思想を正しく把握するためには、その文がいつ発話されたのかを知らねばならない。するとその場合、発話の時(die Zeit des Sprechens)は思想表現の部分である」*
 こうした訳で、フレーゲによれば、発話のコンテクストは「思想」に内在化ないし「思想」の構成要素となっていることになる。

4)フレーゲの「私」の意義論と他の哲学者たちのものとの比較

 以上の文献に裏付けられた論拠により、私は野本氏の主張は誤解だという立場をとる。
 いずれにせよ、フレーゲ自身が行った私的思想の存在の肯定が、私の野本氏批判の最重要点であることに変わりはない。
 最後にもう一度私の野本氏への批判を要約するなら、次のようになる。
もしフレーゲが、野本氏の言うように、必要なコンテクストの知識(=発話者の知識)が加えられ「完全」化された一人称代名詞「私」を含む「思想」文が「脱コンテクスト化」されているなら、なぜフレーゲはこのように完全化された「思想」に必要であったコンテクストの本質的な要素である<私>性が残余すると述べることが出来たのだろうか?
 私見によれば、野本氏はこのような問いに答えることが出来ないはずである。私の見解ではフレーゲにおける完全化された一人称代名詞「私」を含む「思想」文は完全に「脱コンテクスト化」されてはおらず、むしろ必要であったコンテクスト(発話者)と本質的に関係する要素が残っているということになる。
 私の用語で言えば、フレーゲにおいて、「完全」化された一人称代名詞「私」を含む「思想」文(思想そのもの)は「コンテクストフリー」ではなく、むしろ「コンテクストディペンデント」なのである* 。