ジャック・デリダの『生と死』についてのノート4

ジャック・デリダの『生と死』についてのノート4

 

「最初のプロトコール:このテクスト(ニーチェ『未来・・・について』は死後出版に属してするものだ。そして、『この人を見よ』がそれについて語っているだけではなく、ニーチェは死後に出版されたのはニーチェが望んでいなかったテクストでもそうである、さらになおそのテクストはニーチェが出版することを決して望まなかった死後出版であり、ニーチェはその道程の途中で中断させしなかった言説である。それは以下の事を意味するものではない。ニーチェはそれら全てを否認する。そしておそらく今日最も反-ナチ的な民主主義者を憤慨させるであろうものであり、ニーチェはそれらに同意するだろう。しかしながら、ニーチェはそれらに同意するだろう。しかしながら、ニーチェはこれらの講演を決して出版しようとは望まなかった。それらの講演を中断したのだ。)(p.65.)

以上、私訳です。

ジャック・デリダの『生と死』についてのノート3

ジャック・デリダの『生と死』についてのノート3

「いかにして有限な耳の要求と『我有り』のこの複雑性という点で、私は2つであり、2重なのであり、私は2重の仕方で書名するのであろうか?しかしまた私は(moi faison)二つのものを作るのであり、私は死者であり、かつ生者であるetc・・・。そして、これらの事全てが我々に、『教育の我々による確立の未来』の読解へと向かわせるのであろうか?そして、政治へと諸々の政治へとと向かわせるのであろうか?そして、それらの政治は自らにその政治をどのようにして向かうのであろうか?」(p.63.)。

以上、私訳である。

ジャック・デリダの『生と死』についてのノート2

 

ジャック・デリダの『生と死』についてのノート2

 

「生と死についての言説、我々は既に十分に最新のセミナールを確かめた。つまり、この言説はある種の空間において、なお十分に、ロゴスと文法との間で、アナロジーとプログラムとの間で、プログラムの諸差異間の状態にある。そして生が問題になる以上、論理学と書記的なものとの間の空間は、どこかで生物-論理的な審級と生物-書記的な、死に関する-書記的なものの審級また自らを位置づける」(p.48.)

 

以上私訳です

ジャック・デリダの『生と死』についての翻訳

ジャック・デリダの『生と死』についての翻訳

Deuxième Séance

Logique de la vivante

「私はあなたに悩みと時間の喪失を節約しておくべきだろう。そして私は常に1種の服従そして先行する会議の想起に絶えず取りかかるべきであろう。そして私は行程、方法、恒常性の回復に多かれ少なかれ巧みな移行に、古典的な教育方法の命令と同じくらいの自己-正当化があるべきである。そして行程、方法、恒常性の回復に多かれ少なかれ巧みな移行に、古典的な教育法の命令と同じくらいの自己-正当化があるべきである。そしてそれらと全体的に関係を断つことは不可能である。それらは、もし人が、どうしてもトートロジーやくどくど繰り返すことを望むとすれば、古典的な教養法の命令と同じくらいの自己-正当化を拙速に行ってしまうだろう。私はそれゆえ次のようなの妥協をあなたに提案する。その妥当とは、各人が言うように、人がアカデミックな自由と呼ばれるものの用語においては、獲得されるべきであり、あるいはそのままにしておくべきである。私が自由にするそして私が保存することを望む自由から生じるのである。私はある人々はある講義でアフォリスティックで受け容れがたい他の人々はそのものとして受け入れる自由を、他の人々はなお余りにもアフォリスティックと見出す自由を聞かれるとすれば、したがってこのような耳と共に(全てが耳に依存する、そして耳と共に、あなたは最終的に私と理解し合った。そして一般的に理解し合う)私の計画の一貫性と連続性は、それらをすばやく現出させるであろう。最初のシーン以来、この最初のシーンのタイトル自身余りにも早く現出させるであろう。」(p.47.)。

 以上、私訳です。

 

<デリダの民主主義観について>

2019/05/22

<デリダの民主主義観について>

 

“ Ce qui revient à dire, au sens strictement platonicien, qu’il n’y a pas de paradigm absolu, constituteion ou constituteionnel, pas d’ideé absolument intelligible pas d’éidos, aucune idea de la democratie. Il n’y a pas non plus , en derniere analysa, d’idéal democratie.’’

『上記の事は厳密なプラトン的意味においても、民主主義の絶対的な、構成的なあるいは構成要素的ななパラディグムはそんざいしないし、民主主義の理解できる絶対的理念も存在しないし、民主主義のエイドスもイデアも存在しない。結局、民主主義的な理念も存在しないのである』(Derrida, Voyous,p.62.) 

以上私訳である。これには納得できる。

 しかし、私は、このデリダの概念に「宇宙的規模のシルクロード」を含めようと思う。

<ブーベルスの論理学と物理学的素材との混同についての批判>

2019/04/16

<ブーベルスの論理学と物理学的素材との混同についての批判>

‘’Wittgenstein se refere ou passage des Grundgesetz cité plus haut dans une discussion sur ce que signifye le fait que nous nous effortÇons, dans toute espèce de recherche d’éviter à tout prix la contradiction.<<Les chses sont ceci. Si nous faisons, par exemple, de la physique, ou si nous faisons de la zoologie et donnons une explication d’un animal, nous ne voulons pas de contradiction dans cette explication. Si nous penson alors aux mathétiques ou à logique comme à une sorte de physique-cf. la conception de Frege selon laquelle une loi de la logique est une loi dans les termes de laquelle  nous devons penser pour penser ce qui est vrait(semblable aux lois de la physique, mais complètement general)-Si nous pensons de cette manière, nous nous disons tout d’un coup:’’Dans ce cas il ne dooit pas y avoir de contradictions quelconques en logique.’’ Mais c’est bizarre. Car qu’il ne doive pas y avoir de contradictions en logique doit être lui-même une loi logique(1).>> En parlant, dans ce context, d’une conception de la logique qui assimile celle-ci à une sorte de physique, Wittgenstein ne songe pas, bien entendu, à  la physique, d’une esèce particulière de realité, mais plutôt à une discipline qui seráit à la realité en gégéral ce que la physice est à la realité physice,”(p.19.)

 

  1. Wittgenstein’s Lectures on the Foundations of Mathematics, Cambridge,1939,edited by Cora Diamond, The Harvester Press, Hassock, Sussex, 1976, p.214.

 『研究のあらゆる種類において、ぜひとも矛盾を避けようとする努力することが意味することについてのディスカッションにおいて以前に引用された(フレーゲの)『算術の基礎』の途中をウィトゲンシュタインは参照している。事柄は次のようなものである。つまり、もし、例えば物理学を、あるいはもし我々が動物学を、そして動物の解明をしたり、それを与えたりするとすれば、我々はこうした解明において矛盾を望んではいない。もし、その時、我々がある種の物理学と同様に数学あるいは論理学を思考しているならば、-この点については以下の文を参照せよ。それによれば、フレーゲの着想はこうである。彼によれば、論理学の法則はある法則であり、その用語において我々は、(物理学の法則に似たもの、であるがしかし完全に一般的なものに似たもの)眞であるものを思考する為に思考しなければならないというものである-、そしてもし我々がこうした素材を思考するとするならば、我々は一気に次のように考える。『この様なケースにおいて、論理学においてなんらかの矛盾が存在しなければならない。しかしこうした事は奇妙なことである。なぜならば、論理学において矛盾が存在しなければという事は、それ自身が論理学と同一視する論理学の着想を語りつつウィットゲンシュタインは、勿論、現実の特殊なな物理学を考えているのではなく、むしろ現実一般において、物理学が物理利的な現実に属するであるだろう学科を考えているのである』(p.19)

     注1) コーラ・ダイアモンド編、「『ウィットゲンシュタインの数学の基礎講義』の読解」、ケンブリッジ、1939年、p.214.

  

 

  上記は、私訳である。 

 

    私見であるが論理学は、あくまで、形式的なものであり、素材(物理学が扱う現実世界など)を扱うものではない。そこのブーベレスのフレーゲウィットゲンシュタインに対する、矛盾の指摘が伺える(このようなブーベレスのの考え方にはコーラ・ダイアモンドの思考、例えば彼の『現実的精神(The Realistic Spirit)』が含まれているのかもしれない・・・)。

 

  

 

<フレーゲとカントにおける論理学の心理主義化の批判>

フレーゲとカントにおける論理学の心理主義化の批判>

'' Chercher à tirer la lpgique de la psychologie serait, dit Kant, aussi absurde que de chercher à la morale de la vie.(・・・・・・)Les régles de logique, doivent donc être dérivées non de l'usage contingent, mais de l'usage nécessaire de l'entendment, que l'on trouve en soi-même sans aucune psycholpgie ''(p.16.)

ジャック・ブーヴェルス著、中川雄一訳、『言うことと。なにも言わないこと』、国文社、2000年、参考。

「心理学から論理学を引きだそうと試みるのは、カントに言わせれば、人生の倫理学を探求するのと同様に不合理である。論理学の規則は、それゆえ偶然的使用から派生されるべきではなく、むしろ悟性の必然的な使用から派生されるべきである。悟性とはいかなる心理学なしにそれ自身において見出されるされるものである」(p.16)

 以上、私訳である。

'' Dans La préface des Grundgesetze der der Arithmetik,Frege constate que la tentation du psychlogisme est liée à l'usage ambigu que nous faisons du mot<<loi>>,dont nous nous servons tantôt pour décrire ce qui est, tantôt pour prescrire ce qui doit être. Or:<<c'est seulment dans ce deuxième sens que les lois logiques peuvent  être appelées lois de la pensée, dans la mesure où elles stipulent de quelle façon on doit penser.'' (p.16)

 「『算術の基礎』の序文において、フレーゲに言わせれば、心理主義の試みは、曖昧な使用に結びつけられていている。(・・・・・・)さて:人が考えなければならない仕方がどのようなものであれ、それが定める範囲内で論理学的法則は、思想の法則と呼ばれる。この思想の法則は、第二の意味(つまり存在しなければならないものを命じるという事)のみである。』(ibid.)

 以上、私訳である。

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