2019-01-01から1年間の記事一覧

ジャック・デリダの『生と死』についてのノート4

ジャック・デリダの『生と死』についてのノート4 「最初のプロトコール:このテクスト(ニーチェ『未来・・・について』は死後出版に属してするものだ。そして、『この人を見よ』がそれについて語っているだけではなく、ニーチェは死後に出版されたのはニー…

ジャック・デリダの『生と死』についてのノート3

ジャック・デリダの『生と死』についてのノート3 「いかにして有限な耳の要求と『我有り』のこの複雑性という点で、私は2つであり、2重なのであり、私は2重の仕方で書名するのであろうか?しかしまた私は(moi faison)二つのものを作るのであり、私は死者であ…

ジャック・デリダの『生と死』についてのノート2

ジャック・デリダの『生と死』についてのノート2 「生と死についての言説、我々は既に十分に最新のセミナールを確かめた。つまり、この言説はある種の空間において、なお十分に、ロゴスと文法との間で、アナロジーとプログラムとの間で、プログラムの諸差異…

ジャック・デリダの『生と死』についての翻訳

ジャック・デリダの『生と死』についての翻訳 Deuxième Séance Logique de la vivante 「私はあなたに悩みと時間の喪失を節約しておくべきだろう。そして私は常に1種の服従そして先行する会議の想起に絶えず取りかかるべきであろう。そして私は行程、方法、…

<デリダの民主主義観について>

2019/05/22 <デリダの民主主義観について> “ Ce qui revient à dire, au sens strictement platonicien, qu’il n’y a pas de paradigm absolu, constituteion ou constituteionnel, pas d’ideé absolument intelligible pas d’éidos, aucune idea de la demo…

<ブーベルスの論理学と物理学的素材との混同についての批判>

2019/04/16 <ブーベルスの論理学と物理学的素材との混同についての批判> ‘’Wittgenstein se refere ou passage des Grundgesetz cité plus haut dans une discussion sur ce que signifye le fait que nous nous effortÇons, dans toute espèce de recherche…

<フレーゲとカントにおける論理学の心理主義化の批判>

<フレーゲとカントにおける論理学の心理主義化の批判> '' Chercher à tirer la lpgique de la psychologie serait, dit Kant, aussi absurde que de chercher à la morale de la vie.(・・・・・・)Les régles de logique, doivent donc être dérivées non…

<フレーゲの論理主義への信仰に対する懐疑>

2019/04/13 <フレーゲの論理主義への信仰に対する懐疑> 「また、その思想法則が、われわれのものと矛盾しているような人間が存在するということが示唆されたとき、フレーゲは次のように答えた。『そのような状況を記述する唯一可能な仕方は、われわれがこの…

ハイデガーの現前性について

ハイデガーは存在論の根源を時間性においたので、(デリダが「存在と文字」Jacques Derrida,ousia et gramè,in MARGES DE LA PHILOSOPHIE,LES ÉDITIONS DE MINUIT,pp.31-78.で示唆したように)自ら『存在と時間』(Matiin Heidegger,SEIN und Zeit (1927)),Ge…

<フレーゲとウィトゲンシュタインの無意味についての信念>

2019/04/08 <フレーゲとウィトゲンシュタインの無意味についての信念> “Les phrase dépourvues de sens ne sont pas les expression de pensées logiquement fautives. La conviction de Frege, qui sera reprise par Wittgenstein dans le Tractatus, est, …

<ウットゲンシュタインの言語ゲーム論について>

2019/04/03<ウットゲンシュタインの言語ゲーム論について> ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』』(Wittgenstein , Tractatus logico-philosophicus Werkausgabe Band 1 Tractatus logico-philosophicus Tagebucher 1914-1916 Philosophische Untersuchun…

<クロード・ルフォールの思想>

2019/04/02 <クロード・ルフォールの思想> デリダとルフォールとの比較(民主主義のファシズム化) 両者は似ている、民主主義がファシズム化(全体主義化)するという点で。デリダはルフォールに影響を受けているのかもしれない。というのも千葉眞氏の『デモ…

<ウットゲンシュタインの私的言語論について>

2019/04/02 <ウットゲンシュタインの私的言語論について> 彼は『哲学探究』(Wittgenstein , Tractatus logico-philosophicus Werkausgabe Band 1 Tractatus logico-philosophicus Tagebücher 1914-1916 Philosophische Untersuchungen, suhrkamp taschenbuch…

<ヘルトの目的論とデリダの出来事性との関係>

編集 2019/03/29 <ヘルトの目的論とデリダの出来事性との関係> クラウス・ヘルトは『生き生きした現在』においてフッサールを引用しつつ次のように言う「この本能的な目的論にはふたたびまた、学,的な、そしてその最高のものとしての現象学的な『認識の歩み…

<フッサールの超越論的論理学について>

2019/03/29 <フッサールの超越論的論理学について> フッサールは『形式論理学と超越論的論理学』の結語(邦訳、pp.296-298.原書,pp.296-298.)において次のように語っている。「われわれが本書で示そうとしたのは、伝統的な論理学から超越論的な論理学への道…

<カントにおける感性と悟性との総合としての構想力について>

2019/03/28 <カントにおける感性と悟性との総合としての構想力について> カントは『純粋理性批判』において感性と悟性との間の媒介として構想力(Einbildungskraft)について語っているが、その試みは成功しているとは思えない。この考えはどうだろうか?(以下…

<ハイデガーの「時間の根源的本質」について>

2019/03/28<ハイデガーの「時間の根源的本質」について> ハイデガーは『カントと形而上学の問題』、門脇 卓爾、ハルムート・ブフナー訳、邦訳p.190.原書(Matin Heidegger,Kant und das Problem der Metaphysik,Gesamtausgabe,Band3,Vittorio Klostermann、19…

<記号としての現実存在の重要性>

2019/03/27 <記号としての現実存在の重要性> 記号の無限連鎖というポスト・モダン的な考え方はともすれば「現実」を過小評価してきたきらいがある。しかし私の考え方によれば、「現実」は非常に重要な概念だ。私は記号の連鎖の中に、特権的なものとして現実…

デリダの翻訳(1) 「デリダの「来るべき民主主義」と言う概念の原語は<<démocratie à venir>>と言います。以下に、私の気に入ったデリダのVoyous,2003,ÉDITIONS GALILÉE,pp.126-127.の文章を挙げておきます。"Mais,au-delà de cette critique active et…

2019/03/12 <ハイデガーの民主主義についての言及> ハイデガーも西田と同様の過ちを犯している。というのも現在、最高の政体は民主主義に他ならないからだ。彼は『形而上学入門』(平凡社,19994年p.383.原書Mrtin Heidegger, NURBereits 1966 erklärte sich d…

<野家啓一氏のデリダ理解について> 高井雅弘 野家啓一氏のデリダ理解は間違っていた。彼の『言語行為の現象学』において、「デリダの鍵概念である『反復可能性』は、多くの点でオースチンの『慣習』概念と重なり合うものをもっている。」と書いているが、一…

野本和幸氏のフレーゲにおける「私」論批判 高井雅弘 著 -野本和幸氏によるフレーゲにおける指示詞・指標詞が含まれた文の完全な「思想」は「脱コンテクスト化」されているという主張に対する批判- この批判は長年来、私にとって課題の1つである。 野本氏説*…

私見によれば、フッサールはこのような意義上の対立を行っているが、結局、彼は、「根源的意義」(originaren Bedeutung)に回帰し、「遊技的意義」(Spielbedeutung)に二次的な立場しか与えない遊技的意義とは彼によればチェスゲームの規則(Spielregeln)によっ…

「西洋の近代国家は『民主的たらざるをえない』(・・・・・・)」(論文集第四、四三八頁」)と林直道は『西田哲学批判』(解放社 昭和甘年五月十日 p.173.)で西田の民主主義観を述べている。ここから述べられることは、西田はあくまでも西洋の近代国家に民…

デリダの「来るべき民主主義」と言う概念の原語は<<démocratie à venir>>と言います。以下に、私の気に入ったデリダのVoyous,2003,ÉDITIONS GALILÉE,pp.126-127.の文章を挙げておきます。"Mais,au-delà de cette critique active et interminable,l'expr…

2018/12/27 記 現代中国の「一帯一路」構想を鑑みて言えば、、私は、このいわば「論文」における「<宇宙的な規模のシルク・ロード>」という概念に、「民主主義」性を導入すべきであったとつくづく思う。(この点に関して言えば、多分にデリダの「来るべき民…

デリダの「来るべき民主主義」が詳述されているvoyousを読んで、私はつくづく思うのだが、なぜ彼は、民主主義の語源から生じる一番分かり易い(理解面でも実践面でも)定義である、「人民主権」という概念をなぜ、積極的に使わないのか? 上記の著書で、彼は…

2019/01/13 私の「脱構築可能なもの」と「脱構築不可能なもの」との区別のデリダ解釈は、実は私の論文上の処女作、「ジャック・デリダの『戯れ』」(1995)でも示唆されている。そこでは、「ルールは記号である」(p.157.)であると述べておいたが、これはいわば…

2018/12/30 記 私の博士論文p.144.の註137において、私は自分に課題を出しているが、その答えを今なら出せる。それはやはりいわゆる晩年に近いデリダが、不可能なもの/と可能なものとの「区別」を提示したことから導き出される。明らかに「法」は反復「可能…

"je pense, donc je suis"