<ヘルトの目的論とデリダの出来事性との関係>

 

2019/03/29

<ヘルトの目的論とデリダの出来事性との関係>

 クラウス・ヘルトは『生き生きした現在』においてフッサールを引用しつつ次のように言う「この本能的な目的論にはふたたびまた、学,的な、そしてその最高のものとしての現象学的な『認識の歩み』の目覚めた目的論が対応している」(邦訳,p.65.原書,Klaus Held,Lebendige Gegenwart,Martinus Nijihoff,1966,p.43.)。彼のフッサール解釈の是非はともかくとして、なお彼の思想にはなんらかの目的論的傾向が残余しているのではないか?このような想定が正しいとすれば、彼は目的論的思考の範疇に収まっていると言えよう。(Dieser instinktiven Teleologie entspricht wiederum die wache Teleologie des wissenschaftlichen, zuhöcht des phänomelogischen,,Erkenntnisfortschritts.)
 しかし、デリダの「出来事性」にはそういった目的論性を越えようとする思想が存在する。例えば、Le<<concept>> du 11 septembre,2003,p.194.において彼はこう述べる。「統制的理念は可能なものの秩序に止まっている。つまりこの可能なものとはおそらく理想的なものであり、無限なものへと延期される、しかしそれは、無限なる歴史の終わりにおいて、なお可能なものの領域に属する」。周知のように、フッサールはカント的イデーとして、統制理念を挙げている。目的論とはこのカント的イデーに該当する。とすれば、フッサールに学び自己の思想を展開するクラウス・ヘルトもデリダの思考を越えでてはいない。というのもデリダの「出来事」の思考には可能なものにはとどまらない「不可能なもの」が存しているからだ。そしてこの不可能なものは絶対的予測不可能なもの、つまりいかなる「終わり」つまり目的に止まらない、想定不可能性が含まれているのだ。