2019-03-01から1ヶ月間の記事一覧

<ヘルトの目的論とデリダの出来事性との関係>

編集 2019/03/29 <ヘルトの目的論とデリダの出来事性との関係> クラウス・ヘルトは『生き生きした現在』においてフッサールを引用しつつ次のように言う「この本能的な目的論にはふたたびまた、学,的な、そしてその最高のものとしての現象学的な『認識の歩み…

<フッサールの超越論的論理学について>

2019/03/29 <フッサールの超越論的論理学について> フッサールは『形式論理学と超越論的論理学』の結語(邦訳、pp.296-298.原書,pp.296-298.)において次のように語っている。「われわれが本書で示そうとしたのは、伝統的な論理学から超越論的な論理学への道…

<カントにおける感性と悟性との総合としての構想力について>

2019/03/28 <カントにおける感性と悟性との総合としての構想力について> カントは『純粋理性批判』において感性と悟性との間の媒介として構想力(Einbildungskraft)について語っているが、その試みは成功しているとは思えない。この考えはどうだろうか?(以下…

<ハイデガーの「時間の根源的本質」について>

2019/03/28<ハイデガーの「時間の根源的本質」について> ハイデガーは『カントと形而上学の問題』、門脇 卓爾、ハルムート・ブフナー訳、邦訳p.190.原書(Matin Heidegger,Kant und das Problem der Metaphysik,Gesamtausgabe,Band3,Vittorio Klostermann、19…

<記号としての現実存在の重要性>

2019/03/27 <記号としての現実存在の重要性> 記号の無限連鎖というポスト・モダン的な考え方はともすれば「現実」を過小評価してきたきらいがある。しかし私の考え方によれば、「現実」は非常に重要な概念だ。私は記号の連鎖の中に、特権的なものとして現実…

デリダの翻訳(1) 「デリダの「来るべき民主主義」と言う概念の原語は<<démocratie à venir>>と言います。以下に、私の気に入ったデリダのVoyous,2003,ÉDITIONS GALILÉE,pp.126-127.の文章を挙げておきます。"Mais,au-delà de cette critique active et…

2019/03/12 <ハイデガーの民主主義についての言及> ハイデガーも西田と同様の過ちを犯している。というのも現在、最高の政体は民主主義に他ならないからだ。彼は『形而上学入門』(平凡社,19994年p.383.原書Mrtin Heidegger, NURBereits 1966 erklärte sich d…

<野家啓一氏のデリダ理解について> 高井雅弘 野家啓一氏のデリダ理解は間違っていた。彼の『言語行為の現象学』において、「デリダの鍵概念である『反復可能性』は、多くの点でオースチンの『慣習』概念と重なり合うものをもっている。」と書いているが、一…

野本和幸氏のフレーゲにおける「私」論批判 高井雅弘 著 -野本和幸氏によるフレーゲにおける指示詞・指標詞が含まれた文の完全な「思想」は「脱コンテクスト化」されているという主張に対する批判- この批判は長年来、私にとって課題の1つである。 野本氏説*…

私見によれば、フッサールはこのような意義上の対立を行っているが、結局、彼は、「根源的意義」(originaren Bedeutung)に回帰し、「遊技的意義」(Spielbedeutung)に二次的な立場しか与えない遊技的意義とは彼によればチェスゲームの規則(Spielregeln)によっ…

「西洋の近代国家は『民主的たらざるをえない』(・・・・・・)」(論文集第四、四三八頁」)と林直道は『西田哲学批判』(解放社 昭和甘年五月十日 p.173.)で西田の民主主義観を述べている。ここから述べられることは、西田はあくまでも西洋の近代国家に民…

デリダの「来るべき民主主義」と言う概念の原語は<<démocratie à venir>>と言います。以下に、私の気に入ったデリダのVoyous,2003,ÉDITIONS GALILÉE,pp.126-127.の文章を挙げておきます。"Mais,au-delà de cette critique active et interminable,l'expr…

2018/12/27 記 現代中国の「一帯一路」構想を鑑みて言えば、、私は、このいわば「論文」における「<宇宙的な規模のシルク・ロード>」という概念に、「民主主義」性を導入すべきであったとつくづく思う。(この点に関して言えば、多分にデリダの「来るべき民…

デリダの「来るべき民主主義」が詳述されているvoyousを読んで、私はつくづく思うのだが、なぜ彼は、民主主義の語源から生じる一番分かり易い(理解面でも実践面でも)定義である、「人民主権」という概念をなぜ、積極的に使わないのか? 上記の著書で、彼は…

2019/01/13 私の「脱構築可能なもの」と「脱構築不可能なもの」との区別のデリダ解釈は、実は私の論文上の処女作、「ジャック・デリダの『戯れ』」(1995)でも示唆されている。そこでは、「ルールは記号である」(p.157.)であると述べておいたが、これはいわば…

2018/12/30 記 私の博士論文p.144.の註137において、私は自分に課題を出しているが、その答えを今なら出せる。それはやはりいわゆる晩年に近いデリダが、不可能なもの/と可能なものとの「区別」を提示したことから導き出される。明らかに「法」は反復「可能…

"je pense, donc je suis"

デカルトの「我思うゆえに我有り」について補足

このデカルトの「我思うゆえに我有り」については、落合太郎訳p.45.及び原書GF-Flammarion,p.60.参照。

2019/03/20 <デカルトについて>デカルトの方法論的懐疑である「我思うゆえに我有り」は、たとえ神が私を騙したとしても担い手としての私の存在は疑い得ないという主旨のことを述べた。この命題は正しいと私には思われる。

<「新実在論」とデリダとの比較> 「新実在論」の基本的コンセプトは「世界は存在しない」ということである。そして、マルクス・ガブリエルによれば、「新実在論」はポストモダンを越える試みだという。しかしポストモダンにデリダは属していない。その証拠に…

<デリダの自己矛盾について> 私見によれば、デリダは自己矛盾を犯しているのではないか?というのも、『声と現象』において、エクリチュールについて言語自立性論的立場をとっておきながら、「議論の倫理学へ向けて」(p.253.)において「差延(la différance…

今後、哲学関係の話を書いていく予定です

この論文草稿は平成13年以前ぐらいに書いたものです。

知識人としての「西田研究入門」

近代日本思想研究会編 知識人としての「西田研究入門」 高井雅弘 「現在」における西田哲学の学としての復権およびその再検討はそれ自体喜ばしいことである。1911年は日本人による「独創的な」哲学的テクストが誕生し、そしてある意味では日本哲学史が始…