<フッサールの超越論的論理学について>

2019/03/29

<フッサールの超越論的論理学について>

 フッサールは『形式論理学と超越論的論理学』の結語(邦訳、pp.296-298.原書,pp.296-298.)において次のように語っている。「われわれが本書で示そうとしたのは、伝統的な論理学から超越論的な論理学への道程であった-超越論的論理学は第二の論理学ではなく、現象学的な方法の中で成立する根元的で具体的な論理学に過ぎない。(・・・・・・)。[世界の論理学の]基礎段階として機能するのは、新しい意味での<<超越論的感性論>である(このように呼ぶのは、狭く限定されたカントの感性論との関係が把握しやすいからである)。(・・・・・・)。-もちろんそれらは、ノエマ的な意味の開明して、そこから最終的な意味の諸問題や<<影響範囲>>の批判的な確定をしなければならない」。(Den Weg  von der traditionellen Logik zur transzendentalen haben wir in dieser Schrift zu zeichnen versucht-zur transzendentalen, die nicht eine zweite Logik, sondern nur die in phanomenologischer Methode erwachsende radikale und konkrete Logik selb ist.(・・・・・・).Als Grundstufe fungiert die in einem neuen Sinne,,transzendentale Astheti''(so genannt wermoge einer lecht faβbaren Beziehung zur engumgrenzten Kantischen).(・・・・・・).-selbstverstandlich Problemme einer phanomenlogischen, am Leitfaden noematischer Sinnesauslegung fortgehenden Forschung,die noetischer Sinnesauslegung fortgehenden Forschung,die noetisch die,,subjektive''Konstitution enthullen und von da aus letzte Sinnesfragen, kritische Bestimmungen der,,Tragweite''leisten muβ.)

<カントにおける感性と悟性との総合としての構想力について>

2019/03/28

<カントにおける感性と悟性との総合としての構想力について>

 カントは『純粋理性批判』において感性と悟性との間の媒介として構想力(Einbildungskraft)について語っているが、その試みは成功しているとは思えない。この考えはどうだろうか?(以下にこの点に関する引用を挙げておく。「感性と悟性という両極端は、構想力のかかる先験的機能を介して必然的に結合せらねばならない、さもないと感性は、なるほど現象を与えるかも知れないが、しかし経験的認識の対象を、従ってまた経験を与えることができないからである。」篠田英雄訳、邦訳[下] pp.169-170.原書p.124.)。

<ハイデガーの「時間の根源的本質」について>

2019/03/28
<ハイデガーの「時間の根源的本質」について>

 ハイデガーは『カントと形而上学の問題』、門脇 卓爾、ハルムート・ブフナー訳、邦訳p.190.原書(Matin Heidegger,Kant und das Problem der Metaphysik,Gesamtausgabe,Band3,Vittorio Klostermann、1973.)pp.193-195.において「それ故もし私の『時間性』ならびに無時間性について決定されるべきだとすれば、純粋自己触発としての時間の根源的本質が導きの糸とされなければならない。」と書いているが、時間の根源的本質が「純粋自己触発」だとすれば、やはり自己の内部に「他性」が欠如しているのではないか?この点(自己触発、une auto-affction)については、デリダの『声と現象』pp.88-89.参照せよ。
 以上の事柄について、私は新-記号論で考察しようと思う。

<記号としての現実存在の重要性>

2019/03/27

<記号としての現実存在の重要性>

 記号の無限連鎖というポスト・モダン的な考え方はともすれば「現実」を過小評価してきたきらいがある。しかし私の考え方によれば、「現実」は非常に重要な概念だ。私は記号の連鎖の中に、特権的なものとして現実という記号を提示したいと思う。

デリダの翻訳(1)

デリダの「来るべき民主主義」と言う概念の原語は<<démocratie à venir>>と言います。以下に、私の気に入ったデリダのVoyous,2003,ÉDITIONS GALILÉE,pp.126-127.の文章を挙げておきます。"Mais,au-delà de cette critique active et interminable,l'expression" <<démocratiie à venir>>prend en compte l'historicité absolue et intrinsèque du seul système qui accueille en lui-même, dans son concept, cette formule d'auto-immunité qu'on appelle le son concepte, cette formule d'aute-immunité qu'on appelle le droit à l'autocritique et à la perfectibilité. La démocratie est le seul système, le seul paradigme constitutionnel dans lequel, en principe, on a ou on prend le droit de tout critiquer publiquement, y compris l'idée de la démocratie, son concept, son histoire et son nom. Y compris l'idée du paradigme constitutionnel et l'autorité absolue du droit. C'est donc le seul qui soit universalisable, et  de là viennent sa chance et sa fragilité."

「能動的かつ際限なき批判の彼方で、『来るべき民主主義』という表現は唯一のシステムの絶対的で内在的な歴史性を考慮に入れる。来るべき民主主義の歴史性とは、それ自身において、その概念の内部で、自己-免疫性の定式化を受け入れる。そして自己-免疫性の定式化は自己批判権と改善可能権と呼ばれる。来るべき民主主義は唯一のシステム、唯一の構成的模範である。来るべき民主主義の内部においては、原理的に、その民主主義の理念、その概念、その歴史、その名を含めて公的に全てを批判する権利を獲得する。そして構成的模範の理念とその権利の絶対的な権威をも批判するのだ。それゆえ、普遍的化可能なのはその唯一のもの(来るべき民主主義)であり、そしてそこから、そのチャンスとその弱さが生じるのだ。」(Jacques Derrida,Voyous,2003,ÉDITIONS GALILÉE,pp.126-127.)

2019/03/12

<ハイデガーの民主主義についての言及>

 ハイデガーも西田と同様の過ちを犯している。というのも現在、最高の政体は民主主義に他ならないからだ。彼は『形而上学入門』(平凡社,19994年p.383.原書Mrtin Heidegger, NURBereits 1966 erklärte sich der Philisoph Martin Heidegger bereit, im SPIRGEL-Gespräch mit Rudolf Augstin und Georg Wolff Fragen nach seiner Rolle während der Nazi-Zeit zu bantworten.p.2.参照)で「民主主義」について語っているからだ。彼はナチに荷担したことを隠している

<野家啓一氏のデリダ理解について>               高井雅弘

 野家啓一氏のデリダ理解は間違っていた。彼の『言語行為の現象学』において、「デリダの鍵概念である『反復可能性』は、多くの点でオースチンの『慣習』概念と重なり合うものをもっている。」と書いているが、一面、彼の理解は当たっているが、「不ー可能なもの可能性」を考慮していない。この概念は慣習を越える性格を持っているからだ。この点に関しては、例えば、デリダのLe monolinguisme de l'autre,p.25.参照。