<フレーゲの論理主義への信仰に対する懐疑>

 2019/04/13

 

<フレーゲの論理主義への信仰に対する懐疑>

 

 「また、その思想法則が、われわれのものと矛盾しているような人間が存在するということが示唆されたとき、フレーゲは次のように答えた。『そのような状況を記述する唯一可能な仕方は、われわれがこの種の事例を語るとしても、われわれは【その時まで知られていなかったある種の狂気】を発見したと言うだろう、』(『算術の基礎』、Grundgesetze der Arithmetik)、【1883-1903】,Georg Olms, Hildesheimm,1966)Ⅰ.Bnd, p.ⅩⅤⅠ.」(Jacques Bouversse, Dire et ne rien dire,Éditions Jacqueeline Chambon,1997,p.13.)。)

 上記(私訳)のように、私見によれば、フレーゲは論理主義にあまりにも信頼を置きすぎているのではないか?実は論理一般からパラドクスないし矛盾は排除不可能ではないか?

ハイデガーの現前性について

 

 ハイデガー存在論の根源を時間性においたので、(デリダが「存在と文字」Jacques Derrida,ousia et gramè,in MARGES DE LA PHILOSOPHIE,LES ÉDITIONS DE MINUIT,pp.31-78.で示唆したように)自ら『存在と時間』(Matiin Heidegger,SEIN und Zeit (1927)),Gesamtausgabe,Band2, Klostermann,1977.pp.34-35.邦訳、原祐・渡辺二郎訳、ハイデガー著『存在と時間』、中央公論社、1971年、p.98)で定式化した「現存性」あるいは「現前性」(Anwesenheit)(この概念は『時間と存在』MARTIN HEIDEGGER, ZUR SAHCHE DES DENKEND,MAX NIEMEYER VERLAGE TÜBINGEN,p.2.[Aus Anwesen, Anwesenheit spricht Gegenwart.]辻村公一訳、『思索の事柄へ』、筑摩書房、p.5.「現前すること、すなはち現前性、そのことのの内から現在といふことが語ってゐる」にまで維持される)の形而上学に止まっているのではないか?

<フレーゲとウィトゲンシュタインの無意味についての信念>

2019/04/08

<フレーゲウィトゲンシュタインの無意味についての信念>

 

“Les phrase dépourvues de sens ne sont pas les expression de pensées logiquement fautives. La conviction de Frege, qui sera reprise par Wittgenstein dans le Tractatus, est, en effet, qu’il n’y a pas de prnsées logiquement fautives”(Jacques Bouversse, Dire et ne rien dire,Éditions Jacqueeline Chambon,1997,p.11.)。

 

以下に私訳を行っておく。「意味がそこなわれた文は論理的に誤った思想表現である。フレーゲの信念は、実際の所、論理的に誤った思想は存在しないということである。そして『論考』におけるウィットゲンシュタインもこの信念を継承したのであろう。」。

<ウットゲンシュタインの言語ゲーム論について>

2019/04/03
<ウットゲンシュタインの言語ゲーム論について>

 ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』』(Wittgenstein , Tractatus logico-philosophicus Werkausgabe Band 1 Tractatus logico-philosophicus Tagebucher 1914-1916 Philosophische Untersuchungen, suhrkamp taschenbuch wissenschaft,1984.)から『哲学探求』へ移り言語ゲーム(7節、》Sprachspiele《)を展開した。私見ではウィトゲンシュタインは、論理的可能性から現実的可能性(物理的可能性)に移行したのではないか?彼の言語ゲーム理論は私の言う現実的可能性に相当すると思われる。

<クロード・ルフォールの思想>

2019/04/02

<クロード・ルフォールの思想>

デリダルフォールとの比較(民主主義のファシズム化)

両者は似ている、民主主義がファシズム化(全体主義化)するという点で。デリダルフォールに影響を受けているのかもしれない。というのも千葉眞氏の『デモクラシー』p.41.において「ルフォールは、こうした民主主義の性格である『非確定性』を,一面において全体主義の出現の温床として厳しく認識する一方,同時にその偶発性や開放性を民主主義社会の一つの特質として積極的に評価しているようにもみえる」と書かれているからだ。

 そして、この点に関しては、Samir Haddad,Derrida and the inheritance of democracy,p.156.34.Claude Lefort,’’The Question of Democracy,”in Democracy and Political Theory,trans.David Macey(Minneapolis:University of Minnesota Press,1988)

,16.Derrida was in the audience When Lefort first delivered this paper in January 1982

At Lacoue-Labarthe and Nancy’Centre for Philosophical Research on the Political.

According to the published summary, Derrida was an active participant in the discussion that followed and was focused precisely on the distinction Lefort draws between democracy and totalitarianism. See Claude Lefort, ‘’La question de la democratie,’’in Le retrait du politique, By Lacoue-Labarthe and Jean-Luc Nancy, et al.(Paris:Galilée,1983),86-88.「Samir Haddad著、『デリダと民主主義の相続』、p.156.34.

クロード・ルフォール著、David Macey訳、『民主主義の問いと政治的理論』、(Minneapolis:University of Minnesota Press,1988) 16. ラクー=ラバルトとナンシーの政治的なものの哲学的研究センタールにおいて、ルフォールが1982年1月にこの論文を初めて熟考した時、デリダは聴衆のなかにいた、出版された概要によれば、デリダはこのディスカッションの積極的な参加者だった。このディスカッションはルフォールが民主主義と全体主義との間に引いた区別に関して進行されかつ焦点を合わせられた。この点についてはラクー=ラバルトとナンシーet alによる,.クロード・ルフォール著、『政治的なものの退歩』収録の「民主主義の問題」(Paris:Galilée,1983),86-88.を参照せよ。」。

 ただし、現代思想1995、11月号掲載の松葉祥一 著、「民主主義の両義性」のp.55.において、私の見るところ、クロード・ルフォールも「ハンナ・アーレント」の影響を感じるからだ。

 とはいえ、デリダはVoyous,2003,ÊDITIONS GLILÉE,pp.57-58.において民主主義のファシズム化について次のように書いている。’’les totalitarismes fasciste et nazi sont arrives au pouvoir, ils ont pris le pouvoir au cours de dynamiques électorales formellement normals et formellement démocratiques.’’「ファシズム的かつナチズム的全体主義は権力に到達した。それは形式的に通常選挙のそして形式的に民主主義的な力学の途上で、権力を獲得したのだ」。

<ウットゲンシュタインの私的言語論について>

2019/04/02

<ウットゲンシュタインの私的言語論について>

 

 彼は『哲学探究』(Wittgenstein , Tractatus logico-philosophicus Werkausgabe Band 1 Tractatus logico-philosophicus Tagebücher 1914-1916 Philosophische Untersuchungen, suhrkamp taschenbuch wissenschaft,1984.)において私的言語論について展開した(243節から315節、この点に関しては丘沢静也訳参照)(「ところで、誰かが自分の内的経験を-自分の感情や気分などを-自分だけのために書きとめたり、しゃべったりできるような言語というものを考えられないだろうか?」Wär aber auch eine Sprache denkbar, in der Einer seine inneren Erlebnisse-seine Gefühle,Stimmungen,etc.-für den eigenen Gebrauch aufschreiben oder aussprechen könnte?(243))が、果たしてこの私的言語論は成立するのだろうか?彼自身は成立しないと語っている(「なにしろ『感覚』は、私たちに共通の言語、私ひとりだけが理解しているわけではない言語の、単語なのだ。」》Empfindung《ist nämlich ein Wort unserer allgemeinen, nicht mir allen werständlichen,Sprache.(261))。真相はどうなのか?誰か教えてくれたら幸いです。

<ヘルトの目的論とデリダの出来事性との関係>

 

2019/03/29

<ヘルトの目的論とデリダの出来事性との関係>

 クラウス・ヘルトは『生き生きした現在』においてフッサールを引用しつつ次のように言う「この本能的な目的論にはふたたびまた、学,的な、そしてその最高のものとしての現象学的な『認識の歩み』の目覚めた目的論が対応している」(邦訳,p.65.原書,Klaus Held,Lebendige Gegenwart,Martinus Nijihoff,1966,p.43.)。彼のフッサール解釈の是非はともかくとして、なお彼の思想にはなんらかの目的論的傾向が残余しているのではないか?このような想定が正しいとすれば、彼は目的論的思考の範疇に収まっていると言えよう。(Dieser instinktiven Teleologie entspricht wiederum die wache Teleologie des wissenschaftlichen, zuhöcht des phänomelogischen,,Erkenntnisfortschritts.)
 しかし、デリダの「出来事性」にはそういった目的論性を越えようとする思想が存在する。例えば、Le<<concept>> du 11 septembre,2003,p.194.において彼はこう述べる。「統制的理念は可能なものの秩序に止まっている。つまりこの可能なものとはおそらく理想的なものであり、無限なものへと延期される、しかしそれは、無限なる歴史の終わりにおいて、なお可能なものの領域に属する」。周知のように、フッサールはカント的イデーとして、統制理念を挙げている。目的論とはこのカント的イデーに該当する。とすれば、フッサールに学び自己の思想を展開するクラウス・ヘルトもデリダの思考を越えでてはいない。というのもデリダの「出来事」の思考には可能なものにはとどまらない「不可能なもの」が存しているからだ。そしてこの不可能なものは絶対的予測不可能なもの、つまりいかなる「終わり」つまり目的に止まらない、想定不可能性が含まれているのだ。